盛岡を離れて活躍している方々にスポットライトを当て、盛岡との関わり方や盛岡愛をうかがい、さらに次のインタビュー対象者を紹介していただくリレー形式のインタビュー企画「スポットライトモリオカン」、第2回目をお送りします。
今回は1回目でお話を伺ったMori-Run Tokyo代表の佐藤真理江さんからのご紹介で、音楽家の村上千秋さんにご登場いただきます。第1回に引き続き、オンラインでお話をうかがいました。
イタリア・ミラノのスカラ座にて
将来に葛藤する中で出会い、魅了されたイタリアオペラ
――盛岡との関わりについて教えてください。
盛岡市浅岸の出身です。高校まで盛岡に暮らしていて、青森県弘前市の大学に進学して音楽を学びました。その後は久慈市で学校の教員をしたんですが、更に音楽の勉強を深めたくて、東京音楽大学の大学院に進学しました。修了後は東京で音楽の先生として働きました。
働きながら勉強は続けていましたが、本場でオペラを勉強したい気持ちが強くなり、仕事を辞めてイタリアに留学しました。いまは帰国して、東京で働きながら音楽家として活動しています。
――大まかな経歴をうかがっただけでも、盛りだくさんですね!まずは音楽を始めたきっかけについて聞かせてください。
音楽を始めたきっかけは、小学校の合唱部です。私の小学校は合唱熱が強い学校で、小学生に本気で音楽を教えてくださる情熱を持った先生に出会えたのは、いま振り返ると大きかったです。
その後、中学校では常設の合唱部は無かったですが、特設合唱部に所属し、音楽を続けていました。
その時期、総合学習の授業で「将来のことを考える」機会が多くありました。「どのように生きていきたいか」、そしてその上で職業選択をどう考えるかという難しいテーマを、生徒に本気で問う先生方に恵まれた経験も私の中に残っています。その頃から「私は音楽をやりたい。でも音楽では食べるのは難しいだろう。どう生きるべきか・・・・・・」と悩み始めていたように思います。家族からは教員になることを期待されていましたが、自分の中には音楽の道を突き詰めていきたい気持ちがあり、葛藤していました。
高校でも「どう生きるべきか」という葛藤は続きます。高校1年の時点では音楽に関わる元気があまりなくて、中学校から続けていたバレーボール部になんとなく入りました。ただ、高校1年の後半にコンクール期間のみのつもりで合唱部も兼部しました。次第に両立が難しくなり、また声楽の先生に本格的に師事し始めたことも重なり、バレーボール部は辞めてしまいました。ですが夢の為にと背中を押してくれたバレーボール部の仲間たちにはとても感謝しています。
今私が専門としているイタリアオペラとの出会いは、兼部で始めた高校の合唱部でした。合唱部の顧問だった先生が、オペラ大好きな方だったんです。合唱部に入り、その先生から教わったオペラの世界が衝撃的でした。高校生ながらオペラを上演するという経験もしました。
県民会館のホールで、衣装をつけ、演技をつけて、小編成でのオケで、合唱部が単独で上演したんです。いま考えるとすごい話ですよね(笑)その上演は現在は続いていないようなので、特別な経験だったと思います。
高校時代、合唱部で歌劇「フィガロの結婚」を上演した際の1枚
――高校で出会ったオペラに魅了されたんですね。どんなことが魅力だったんでしょうか。
綺麗なドレス姿のオペラ歌手達が、眩しく輝いて見えて、何かよくわからないけれどすごい!!この世のものとは思えないほど美しくて、憧れの夢の世界だなと思っていました。
オペラに出会い、大学は音大へ進学して勉強したいという希望ももちろんあったのですが、本当にその先音楽で食べていけるのか、人生を懸けて音楽を追求する自信と、家族を説得する勇気がその当時の私には無くて、教育学部の音楽科に進学します。音楽をやりたいという希望は自分の中で固まっていたものの、進学先が音楽大学でなかったことには違和感があり、大学生活の序盤は葛藤を抱えていました。
同じ東北とはいえ、弘前には盛岡とは別の風が吹いていて、大学生活で盛岡愛を強く自覚しました。休みがあると盛岡にしょっちゅう帰省して、弘前に戻るときは盛岡の特産品をたくさん買って帰ったりしていました。(笑)
――音楽大学でない、教育学部の音楽科で始まった大学生活。そこでの学びはどのようなものだったのでしょう?
ここでまた、先生との出会いがありました。
私が入学したときに声楽を教えていた先生が、イタリアのミラノから帰国したばかりの先生だったんです。つまり、青森にいながらオペラの勉強ができるということで、日常的に本格的なレッスンを受ける日々が始まりました。また、当時いらっしゃった作曲の先生の山奥の別荘に連れて行っていただき、蓄音器で希少価値の高い音源を、ゆっくり聞かせていただいたりして「音楽を聴く」ということを教えていただけた時間は、本当に貴重だったと思っています。
――お話を聞いていると、節目節目で、音楽に熱心な先生に出会って導かれてきたように感じます。
本当にその通りで、人との出会いに助けられています。出会いが全部つながっているんです。大学で教わった先生には「どこにいたって、勉強できることは同じ」とよく言われました。志ひとつで、どんな環境でも学ぶことはできるという意味ですね。でも当時の私は「自分がいる場所は、音楽大学ではない」という葛藤の中にいたので、あまり響いてなかったんです。
言語の勉強や、オペラについて日本語で読める文献を読み知識をつけることは、都会も田舎も関係なくできることですよね。いまとなっては、先生の言葉の意味をよく理解できるんですが、当時は東京や音楽大学への憧れはかなりありました。図書館ひとつとっても、音楽大学の図書館には楽譜や専門の文献がたくさんあって、音大生はそれを自由に読めるわけです。私はそうはいきませんでしたから。
音大生に対して羨ましい気持ちはありましたし、それに負けたくないという反骨心も強かったです。たまに上京するときはキャリーケースを引いていって、専門店や古書店に入り浸って音源や文献を買いあさっていました(笑)そして、同世代の音大生はどんな勉強をしてどんな声で歌っているんだろうと演奏会を聴きに行ったり、コンクールを聴きにいったり、興味深々でした。
大学卒業後、母校の高校の演奏会にゲスト出演
久慈での教員生活で向き合った「何のために勉強するか」の問い
――音楽に打ち込んだ大学生活だったんですね。大学卒業後は岩手で教員になったと聞きましたが、音楽の先生だったんですか?
大学卒業後、中学校の音楽の常勤講師として久慈市で働くことになりました。私自身、良い指導者に恵まれ、教え導かれた経験から学校教育に悪いイメージはなかったため、教員として学校現場を見るのもいい経験になるのかなという思いがありました。もうひとつは、大学時代本気で「歌うこと」と向き合い、本当に音楽の世界でやっていけるのかという不安を抱えていたという事情もあります。
久慈市で暮らして本当によかったと思っています。岩手出身とはいえ、自分は盛岡市の一部しか知らなかったんだと気付かされました。生活の仕方はもちろん盛岡とは違うんですが、子どもたちの進路についても違いがあって、「学びを続ける」ということに重きを置いている人はあまり多くない印象でした。子どもたちからは「早く学校卒業して、バイトして自由なお金が欲しい」「夢は早くお嫁さんになること」という声も聞こえてきたり。「勉強することって何の意味があるの?」という質問もたくさん受けました。
日本は、現状ではある程度学びを続けたり学歴をつけたりしないと、将来の選択肢を持てません。だから生徒たちには「いまはやりたいことがわからなくても、将来何かをやりたいと思ったときに選択肢を持てるようにしたほうがいいよ」と伝えていました。
「何のために勉強するのか」と何度も何度も生徒から問われる日々で、教員時代はずっとそれについて考えていました。無限の可能性を持っている子どもたちを相手にする教員という職業は、いかに責任ある仕事かと思わされたり。音楽家としてもまだまだ未熟な自分が、可能性ある子どもたちに教えていいものなのかと悩み、「自分はまだ教壇に立つのは早い」と思うようになりました。
スペイン・フランスの劇場をまわるツアーで、40を超える公演に出演した経験も
――それが音大の大学院に進学する動機になるわけですね。
そうです。1年間の教員生活を経て盛岡の実家に戻り、市や県の臨時職員をしながら大学院進学の準備を続けました。久慈の中学校でも、盛岡で働いた職場の方々にも本当に恵まれました。
音大の大学院では、演奏家としての勉強に集中しました。その分野のプロがたくさん先生としていらっしゃるので、実技のレッスンはもちろん、言語の授業、歌の歌詞の韻律を紐解く授業等、カリキュラムが非常に充実していて、あっという間の2年間でした。
大学院に進学してもやはり、修了後にどうやって演奏活動を続けていくかというのは模索し続けていました。その一環で、東日本大震災の被災地に芸術活動を届けるという岩手県のアウトリーチ事業で、久慈を訪問する機会に恵まれました。かつて働いていた中学校で演奏する機会もあり、とても嬉しかったです。
そうした経験を通じて、久慈をはじめとする地方の子どもたちにも、将来は望みさえすれば無限の可能性があることを伝える活動をしたいと考えるようになりました。押しつけがましいかもしれませんが、将来の可能性があることを知らないということは本当にもったいない!と思うんです。
留学したイタリア・ミラノに感じた「盛岡」
――実際にイタリアに留学してみて、よかったことはどんなことでしょう?
ミラノでは、市民レベルで芸術を守ろうとしているとすごく感じました。たとえば、オペラを上演するスカラ座という場があります。ミラノ市民にとってスカラ座は伝統芸術を守るべき象徴でもあり、そこで上演されるオペラで相応しくない表現があったりすると、観客である市民から大ブーイングが起こるんです。「スカラ座でそんなことをするな!」という意味です。
また、ミラノ市民にとってオペラはとても身近なものです。日本ではオペラはチケットが高額で、同じ演目でもキャストが変わる度に何度も聴きに行って、今シーズンのラインナップを確認する、ということはできないですよね。ヨーロッパの劇場では天井桟敷席があり、都市によって差はあると思いますが日本円で約1500円前後でオペラを見ることができます。日本で言えば映画を見るような感覚でオペラを見ることができるんです。イタリアで生活をすることによって、作曲家が生きていた土地を知り、オペラが日常生活の延長線上にあると感じることができたのは大きな収穫でした。
家族のように迎え入れてくれたミラノの大家さん
――留学中はホームシックになったりしませんでしたか?
全くなりませんでした(笑)むしろ、盛岡を感じる事が多かったです。留学前、ミラノは都会のイメージだったんですが、一般市民が生活している地域は全然そんなことなくて。むしろミラノがある北イタリアは、東北にも通じる風土がありました。生活をとても丁寧にしていたり、よそ者に対して最初はとっつきにくいけど、一度受け入れると家族のように扱ってくれるところだったり(笑)
気候的にも盛岡に似ていました。盛岡の冬には体の芯まで冷えるような寒さがありますよね?ミラノの冬も寒くて、留学中もそんな寒さを経験しました。
ほかには、川の雰囲気が、盛岡にとても似ているんです!流れている運河がすごく穏やかで、市民を見守っている感じがしました。
イタリア・ミラノのナヴィリオ地区
オペラをさんさ踊りのような、日常に近い身近なものにしたい
――現在、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、文化芸術は大きな打撃を受けていると聞いています(取材は2020年7月中旬)。ご活動にも影響があったのではありませんか。
新型コロナウイルスの影響で、舞台芸術の分野は直接的なアウトプットの場をかなり奪われている状態です。
でも、出来ることが全く無いとは思っていません。オンラインで世界中がより近くなり、学習のチャンスは増えたように思います。また、これまでやったことのない動画作成や配信、音源制作などにも積極的に取り組んでいます。
ただ今回を機に、純粋に文化芸術を守っていこうという、原点回帰ともいえる活動が増えるんじゃないかとも期待しています。
――音楽家の活動として、今後やりたいことなどがあれば教えてください。
今までの経験を通して、どのようなかたちで音楽を伝えていくか、クラシックファンとそうではない層との大きな隔たりを埋める活動や、音楽を学ぶ学習環境の仕組みを変えていきたいなと思っています。
今回のコロナ禍で、なおさらその必要性は高くなる気がします。これまで当たり前だったことを見直していかないと、真の文化芸術は消滅してしまいそう。音楽家として、文化芸術を次世代へ継承し守っていかなければならない事は使命だと思っています。
特に、オペラ=高尚なものと思う人が現在の日本では多いかもしれませんが、ヨーロッパのようにより日常に近いものになれば、身近なものになるはず。盛岡でたとえるならば、さんさ踊りのようになるといいですね。市民にとっての日常で、市民みんなで守っていくもの、というような。
私は出会った先生方の巡り合わせで、運良く導かれてイタリアで研鑽を積むというところまでたどりつくことができました。でも、巡り合わせによってはうまくいかないこともありますよね。だからそういう世界があるということを、盛岡はじめ地方の子どもたちにも伝えていきたいんです。
私自身の経験を振り返ると、留学の様々な方法や現地へ行ってからの生活の手段などを教えてくれる人が盛岡にはいませんでした。「音楽を学びたい」と子どもたちが願ったときに、「こんな方法があるんだよ」と提案できればいいです。特に私が生まれ育った盛岡、岩手の子どもたちに対してそれができたらいいなと思っています。
コロナ禍における芸術文化活動支援事業にも参加
――最後に、村上さんにとっての盛岡とはどういうところですか?
私にとっての盛岡は、私を形成するアイデンティティです。好きとか嫌いとかじゃなく、私そのものです。それは一生変わらないし、変わらないものであってほしいです。
村上千秋さん
盛岡市浅岸生まれ。高校まで盛岡で過ごし、大学は青森県弘前市の大学で総合的に音楽を学ぶ。卒業後は久慈市の中学校で常勤講師として働き、その後は盛岡での準備期間を経て東京音楽大学大学院で、より専門的に声楽を学ぶ。その後私立中高一貫校での勤務を経て、イタリア・ミラノに留学。帰国後は都内で働きながら音楽家として活動中。ヨーロッパで舞台に立つ事を目標に掲げ、更なる研鑽を積んでいる。
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出演動画:アートにエールを!東京プロジェクト
聞き手:シュン